大政奉還150周年記念

天神さん 子ども将棋交流大会

京都府在住の方、もしくは京都府にある学校に通っている方専用の申し込み用紙です。
京都府以外の方は、申し訳ありませんがお住いの各自治体で「大政奉還150周年事業について」お問い合わせください。


    「大政奉還150周年記念 天神さん子ども将棋交流大会」の意義


   今年8月、「大政奉還150周年記念 天神さん子ども将棋交流大会」を実施致します。

なぜ「大政奉還150周年」に、学問の神様「天神様」(北野天満宮)と日本の伝統文化「将棋」なのか。その意義についてお伝えします。


 北野天満宮の創建は、平安時代中頃の天暦元年(947)に、西ノ京に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが当所に神殿を建て、菅原道真公をおまつりしたのが始まりとされます。菅原道真公は幼少の頃より学業に励み、情緒豊かな和歌を詠み、格調高い漢詩を作るなど優れた才能の持ち主でした。学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し、昌泰二年(899)右大臣の要職に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括された方です。江戸時代には、各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室に天神さまがおまつりされたり、道真公のお姿を描いた「御神影」が掲げられて、学業成就や武芸上達が祈られてきました。そして現在「学問の神さま」、「芸能の神さま」として日本国中に広く知られるようになった所以です。


 一方、将棋はインドの「チャトランガ」というゲームがルーツになっていると言われています。ヨーロッパに伝わっていったのがチェス、中国、朝鮮半島を経て日本に伝わっていったのが将棋となりました。日本での将棋の記録は平安時代に始まります。藤原行成の『麒麟抄』という文献の中に将棋のことが書かれています。ただ、この時は持ち駒の概念はなく駒や升の数、ルールも今と違っていました。現在の81枡、40枚の駒を使った「本将棋」となったのは江戸時代です。八代将軍徳川吉宗は享保元年(1716)に将棋家元三家の代表者が将軍の御前で将棋を披露する「御城将棋」を始めました。将棋は江戸幕府から正式に認められていました。「縁台将棋」という言葉があるように庶民の間にも広がり始め、明治時代には全国各地に広がり、文字通り日本の伝統文化の一翼を担うものです。


 始まりが平安時代、今の形や評価が確立したのが江戸時代、日本国中に広く知られたのが明治維新以降と、北野天満宮と将棋の歴史は不思議と一致します。特に、江戸時代は、天神様(北野天満宮)にとっても将棋にとっても今の形が定まった特別な時代といえます。また明治維新は、日本の心として国民に広く親しまれるに至るきっかけとなりました。その明治維新に至る大きな流れを作ったのが十五代将軍徳川慶喜によって行われた大政奉還です。それから百五十年。北野天満宮と将棋のコラボレーションが実現しました。


 大政奉還で、鎌倉時代から続いた武家による政治が終わりました。日本が近代化に踏み出した大きな歴史の転換点となりました。徳川幕府のために働いた人々。徳川幕府を倒し、西洋に負けない天皇中心の近代国家を作ろうとした人々。それぞれの志に思いを馳せながら「大政奉還150周年記念 天神さん子ども将棋交流大会」は企画されました。

 佐幕派、倒幕派、あるいはゆかりの地域の少年棋士が、大政奉還の意義や、日本の近代化に尽力した先人達の志と行動に思いを馳せ、集い、交流し、技量を競います。少年棋士達の人格形成に寄与し、日本を愛する心を育み、思い出を作るまたとない機会です。


 江戸時代の教育水準は世界的に高く、庶民の識字率も西洋のそれと比べても高かったと言われています。それは、幕府が江戸に設けていた昌平坂学問所や藩校が武家の教育を担い、寺子屋が庶民の教育を担っていたからです。また近代の私立学校の前身または母体として重要な位置を占めるようになる私塾も大きな役割を果たしていました。その江戸時代の教育水準の高さが大政奉還以後の日本の驚異的な近代化のスピードの背景にあったことは間違いありません。そういう意味で、学問・芸能の神さまとして全国に知られる天神様(北野天満宮)は、学問や教育が国家の発展の礎石となること、歴史と文化の町・京都、日本の文化としての将棋が発信されるもっともふさわしい場所です。